三田城跡
三田小学校の一角にある三田城跡の碑
九鬼久隆が三田に入部したとき、幕府から築城を認められなかったため、以前からあった城郭を破壊して、三田小学校の地に陣屋を築き、古城の一部を二の丸として茶屋や武器庫を置いたということです。その古城というのは、摂津東半国を支配した伊丹城(有岡城)を居城とした荒木村重が支城として築いたものでしたが、信長への謀反により攻め落とされ、そのまま廃城となっていたようです。
有馬高校内の周辺古地図
有馬高校の構内で、増築工事の時に金心寺(こんしんじ)の礎石が発掘されました。飛鳥時代、藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が、天皇の命により鎮護国家のため建立したと言われています。非業の死をとげた有馬皇子の異父兄弟であった定慧は、皇子の領地であった三田で菩提を弔ったとも伝えられています。城の周辺は、広大な敷地に大伽藍をほこる金心寺の門前町として栄えていましたが、三田城が信長軍勢に攻められたときに寺も焼かれ灰塵と化してしまったのです。
御家騒動で別れた九鬼氏でしたが、三田九鬼氏には綾部九鬼氏から何度か養子が迎えられて藩主になるなどして、幕末までつつがなく大名家として続いています。ちなみに最後の三田藩主は、綾部九鬼氏から養子にきた隆義です。白州退蔵を抜擢したり、川本幸民を重用して福沢諭吉などとも交流し、維新後は三田藩知事となり、企業家・教育者として神戸女学院の基礎をつくるなどして地域に貢献し、やがて貴族議員となり宮内庁に勤めています。
なお、九鬼氏の所替えがあったころの光明寺はまだ真言宗のお寺でしたが、文化元年(1804年)、仏道禅師の再興により曹洞宗寺院となり、大本山永平寺より直末寺(兵庫県下では唯一)に列されます。